白石和紙/壽丸屋敷(すまるやしき)


文化?歴史
ロイヤルシティ宮城蔵王リゾート/2022.07.28

ロイヤルシティ宮城蔵王リゾートが広がる宮城県蔵王町の南隣、白石(しろいし)市は、蔵王の山々を源とする美しい水に恵まれた場(chǎng)所です。江戸時(shí)代には、その恩恵を得てつくられた白石溫麺(うーめん)、白石葛、白石和紙が、全國(guó)に名を馳せる特産品となり、『白石三白(しろいしさんぱく)』として地域の産業(yè)を支えました。
『白石溫麺』は、油を使わず、小麥粉と塩水でこねてつくるそうめんの一種。この麺が胃を病んだ父親のためにつくられたという話に由來し、息子の「溫情」から「溫麺」と名付けられたとか。約9cmという短さも獨(dú)特で、現(xiàn)在も白石の郷土食として根付いています。
水に恵まれた白石は、良質(zhì)の葛を採取できる場(chǎng)でもありました。白石で採取?栽培される『白石葛』の中でも「小原の葛粉」は上質(zhì)で、江戸や大坂では、米より高値で売れたといいます。
江戸時(shí)代に伊達(dá)藩が産業(yè)として推奨したのが『白石和紙』です。白石和紙の原料のコウゾは、愛媛県宇和島市から持ち込まれたトラフコウゾという種類で、その長(zhǎng)く柔らかい繊維が優(yōu)れた強(qiáng)度と耐久性をもたらし、和紙で服を仕立てたり(紙衣)、和紙を糸にして布を織ったり(紙布)と、綿やシルクでは表現(xiàn)できないしなやかさと溫かさが重寶されました。

當(dāng)時(shí)は紙?jiān)悉紊bから紙すき、加工まですべての工程を、白石を含む刈田郡一円で行われ、最盛期には和紙づくりに攜わる家が300軒を數(shù)えましたが、明治になると洋紙が普及し衰退。しかし、昭和のはじめに、遠(yuǎn)藤忠雄氏が伝統(tǒng)復(fù)興を目指して紙工房を開き、彼が優(yōu)れた紙すき職人となったことで、白石和紙は再び腳光を浴び、宮內(nèi)庁の重要記録用紙にも指定。文化財(cái)の修理に使用されるようになります。東大寺の「修二會(huì)(お水取り)」では、現(xiàn)在も僧侶の裝束として白石和紙でできた紙衣が採用され、14日の行の間、著用されています。
遠(yuǎn)藤氏が開いた工房は、彼亡き後も妻が継承し、2015年まで活動(dòng)。高齢による廃業(yè)を余儀なくされた後は、その志と技術(shù)を地元市民グループ『蔵富人(くらふと)』が受け継ぎました。蔵富人では今、トラフコウゾの畑づくりに始まる和紙の生産や和紙雑貨をつくるワークショップなど、さまざまなアプローチで白石に再び和紙の命が根付くために活動(dòng)しています。

『蔵富人(くらふと)』は、白石の町の魅力を地元の人や観光客に知ってもらうために、代表の阿部桂治さんを中心に、地元有志たちで結(jié)成された市民グループ。白石和紙を普及する活動(dòng)のほか、壽丸屋敷を中心にさまざまなイベントを開催、地域の魅力を発信しています
地元が誇る文化として、白石和紙の魅力を発信する蔵富人(くらふと)の活動(dòng)は、著実に成果を見せており、市內(nèi)のある中學(xué)校では、生徒本人が漉(す)いた和紙を卒業(yè)証書として渡すのが近年の恒例となっています。また、版畫家や織物作家、ペイントアーティストなど多分野のアーティストたちが、白石和紙獨(dú)特の風(fēng)合いや、しなやかさに注目。「これじゃないと(作品ができない)」という聲もあがるほどです。
明治中期に建てられた豪商屋敷『壽丸屋敷(すまるやしき)』の店蔵では、白石和紙の歴史をたどる展示のほか、白石和紙を使ったアーティストの作品を常設(shè)展示。流木や蔓枝(つるえだ)を使った「白石和紙あかり」や「うちわ」など、1日で完成するワークショップもここで開催されています。一面の壁いっぱいに飾られた「あかり絵」は、歌舞伎や浄瑠璃の人気演目で、地元白石が舞臺(tái)の『白石噺(ばなし)』を描いたもので、その鮮やかさに目を奪われます。
(寫真上)姉妹が父の仇討ちを果たす物語「白石噺(ばなし)」のあかり絵
(寫真左)縁側(cè)から見える庭は、地元保育園のお散歩コース
(寫真右)神棚に飾られている、仙臺(tái)の工蕓品「松川だるま」
この『壽丸屋敷』は、享保年間から代々紙問屋、太物屋、味噌醤油醸造、不動(dòng)産業(yè)などを生業(yè)にしていた豪商、渡辺家の屋敷です。白石和紙の作品が飾られている店蔵は明治中期頃に、母屋などは1923年(大正12年)に、門は明治の終わりから大正初期にかけてつくられ、のちに改修されたもの。洋館の応接間や大きな仏間といった大膽な設(shè)計(jì)から、ベネチアンガラスの玄関窓や9mにも及ぶ一本杉の軒桁、海外から取り寄せた舶來物の合板を使った天井など、細(xì)部に至るまで贅が盡くされています。長(zhǎng)らく空き家狀態(tài)でしたが、市に寄贈(zèng)されてからは町の有志が設(shè)立した『白石まちづくり株式會(huì)社』が管理。フリーマーケットや作品展を開催したり、庭は近隣の保育園のお散歩コースになったりと、今ではすっかり市民が集う場(chǎng)に。いくつもの栄枯盛衰を経てきた白石和紙が、そして壽丸屋敷が、白石市民の力によって息を吹き返しています。


「この屋敷に來た人からは『昨日まで生活されていたみたい!』という聲を聞くくらい、空き家だったこの屋敷が見事によみがえりました」と語る、白石まちづくり株式會(huì)社事務(wù)局の立田ふぢ子さん。一年を通して壽丸屋敷を中心にしたイベントが実施され、中でも約30畳続く座敷を利用し、各所から持ち寄った雛飾りが8mにわたって並ぶ「雛飾り」(2月下旬?3月上旬に開催)は圧巻で、多くの人で賑わいます。「今は白石の町全體が靜かになっているので、ここにきた人たちが町に戻って、この賑わいを広げてくれるとうれしいです」
